【CK3】ブリアン家の略歴 ~アイルランドのブリアン家ロールプレイ用1

導入 ~なぜマンスター小王ムルハダはアイルランド王を目指すのか

CK3の公式チュートリアル国家であるアイルランド南西部のマンスター小王ムルハダは、初期からアイルランド王国の曖昧な請求権をもっています。それは、祖父であるブライアンがアイルランド上王だったからです。

本記事は、ムルハダの祖父にあたり、ブリアン家(オブライアン家)の始祖であり、自称ではなく実質的な支配を行った初めてのアイルランド国王とされている王ブライアン(ブライアン・ボル)を中心に記述してしたいと思います。

中世アイルランドの歴史全般に関しては、こちらの記事にまとめております。

CK3からのデータは、パッチ1.51時点のもの。読み方は、基本的に日本語化MODに準拠。

優秀な指揮官マスガマン(ブライアンの兄)

家系図では、この位置。王ブライアンの兄にあたる人物です。1066年時点では死亡しています。

ブリアン家_マスガマン

CK3のマンスター地方北部エニス伯爵領(現在のクレア県)一帯を支配する部族ダールカシュ(もしくはドール・カイス、Dál Cais)の王キェニェーチクの子であるマスガマンと末っ子のブライアンは、父キェニェーチクと共にシャノン川(アイルランド最長の河川で、アイルランド北東のアルスター地方から、南西のリムリックへと流れるアイルランドを東西に分ける)伝いにコナハト(コノート)とミーズ周辺を海軍で強襲したそうです。

CK3 シャノン川

この経験から、マスマガンとブライアンは共に優秀な指揮官であり海軍の運用に長けていたようです。

マスマガンは、964年にマンスターを統べてきた王朝を打破し、マンスター王となります。

けれども、マンスター南部の勢力モール・ムアドは彼に従いませんでした。

マスマガンは、マンスター南部の勢力モール・ムアドと一時休戦した後に、ノース人(バイキング)の王リムリックのイーヴァル(Ivar of Limerick)とノース人の諸勢力を打破し、972年にリムリック要塞を手中に収めました。

しかし、再び戦争状態となったマンスター南部の勢力”モール・ムアド”によって976年にマスマガンは殺害されてしまいました。

CK3をブリアン家でプレイするならば、是非子孫に与えたい名前の一つです。

初のアイルランド王ブライアン(ブライアン・ボル)

ブリアン家 家系図 ブライアン

兄マスマガンの死後、976年に部族ダール・カシュの王を継いだブライアン・ボルは、兄マスマガンに引けを取らない軍隊指揮能力を発揮します。

978年にベラク・レクタの戦い(場所は不明とされている)でマンスター南部の勢力”モール・ムアド”を打ち倒してマスマガンの仇を取ると、978年にノース人の残党をリムリックで行われたカハー・クアンの戦いで一掃し、マンスター王の基盤を確固たるものにしました。

ブライアンは次に、東のレンスター地方と北のコナハト地方に目を向けました。

そのため、ミーズ地方に基盤を持つアイルランド王を名乗っていたモール・セックネールと982年から997年までの15年間衝突することになりました。

モール・セックネールは、継続的にレンスター地方とマンスター地方に軍を向かわせました。

一方でブライアンは父や兄が行っていたように、シャノン川を使って、約300隻の海軍と陸軍を率いてミーズ地方やコナハト地方を攻撃しました。

CK3_アイルランド地図

ブライアンは上手く海軍と陸軍を強調させて攻撃させること(具体的にどうやったかはわからなかった)で、戦術的に戦ったようです。

そして、996年にレンスター地方を手に入れました。

997年に、ブライアンとモール・セックネールが会談を行って、アイルランドの北半分とアイルランド王の称号をモール・セックネールが保有し、アイルランドの南半分をブライアンが統治するすることで合意し、休戦協定が結ばれました。

しかし、999年にブライアンの支配に対して、レンスター王モール・モルダとアイルランドの現在の首都ダブリンのノース人勢力が手を組み反乱を起こしました。この反乱は、ダブリンの西で行われたグレン・モーマの戦い(Battle of Glen Mama)でブライアンとモール・セックネール同盟軍が勝利したことによって鎮圧されました。

997年の休戦協定によってアイルランドの南半分を統治するに至ったブライアンでしたが、その野心は満たされておらず、1000年にブライアンは再びモール・セックネールの治めるミーズ地方に軍を進めました。

モール・セックネールはシャノン川に橋をかけることで、ブライアンの海軍の侵攻を妨げつつ、コナハト地方とミーズ地方の軍を行き来しやすくする対策を行ったが、1002年にブライアンにアイルランド上王の称号を譲ったとされています。(戦いに負けて譲らざるを得なかったのかは定かになっていない)

モール・セックネールを含め、アイルランド上王(High King of Ireland)はアイルランドにおいて唯一無二の存在でしたが、名ばかりの存在でした。アイルランド上王がいながら、実態は小勢力がいくつも存在する政治的に分裂した状態でした。

しかし、ブライアンは名ばかりのアイルランド上王ではなく、実態を伴ったアイルランドの上王になろうとしていました。

実態を伴ったアイルランド上王になるため、1002年ごろからの10年間は、アイルランド国内でブライアンの権威を認めない諸勢力を次々と征服し、1005年にブリアンは”アイルランド人の皇帝”を称しました。

その征服の中で特に手強かったのがアイルランド北東部に位置するアルスター地方の西側を統べるケネル・エオガン北部と東側を統べるユレイドの王国でした。

このアルスター地方の王を征服するために、アルスター地方以外のアイルランド内の動員可能な兵力を実際に動員するほどに手強かったそうです。

1011年、ブリアンは漸くアイルランド内の全ての地域の支配者にブリアンの権威(つまり、アイルランド上王であり、アイルランド人の皇帝)であることを認めさせました。

18世紀に描かれたブライアン・ボル(ブリアン・ボーリヴェ) Public Domain

しかし、残念なことに直後の翌年1012年にレンスター地方でまたも反乱が起き、アイルランドの支配者たるブリアンのアイルランド上王の権威はすぐに失われてしまうことになります。

999年に一度反乱を起こしていたレンスターのモール・モルダはブライアンの権威を渋々受け入れただけであり、また、ブライアンの息子(誰かは不明)がモール・モルダを辱めたことが原因となって、モール・モルダは独立を宣言し、つい最近ブライアンに下ったアルスター地方の地域支配者の一人と共に、前アイルランド上王のモール・セックネールが治めるミーズ地方を攻撃しました。

前アイルランド上王のモール・セックネールは自国を守るために、現アイルランド上王のブライアンに援軍を要請します。

1013年、ブライアンは息子のムルハダ(Murchad、CK3 1081年開始時のマンスター小王ムルハダではなく、そのムルハダの叔父にあたる人物)に軍を率いさせてアルスター南部を三か月間略奪させ、ブライアン自身も軍を率いて出陣しました。

1013年9月9日に反乱軍の根拠地ダブリンの城壁外でブライアンと息子ムルハダは合流し、ダブリンを包囲しました。ブライアンの艦隊もダブリンを包囲しましたが、先にブライアンの軍の物資が尽きてしまったために、ブライアンはマンスターへの撤退を余儀なくされました。

反乱を起こしたモール・モルダは、もう一度ブライアンが攻めてくることを理解していたのですが、最初に味方に付いたアルスターの地域支配者以外、コナハト地方やアルスター地方の誰も味方してくれる勢力がいなかったため、アイルランド国外からの支援者を得ようと考えました。

そこで、部下と甥であるダブリンの統治者シトリックを国外へ派遣しました。

シトリックは、オークニー諸島(CK3でもノース人、つまりバイキング支配下のスコットランド北東部)に行った後にマン島に(アイルランド海上の島。バイキングの支配下にあった)立ち寄り、バイキングの軍隊の協力を得ることに成功します。

ブライアン・ボルの最後 クロンターフの戦い

1014年、モール・モルダとシトリックと同盟を組んだオークニー諸島・マン島のバイキング艦隊がダブリンへ集結しました。

当然、外患誘致とも取れるこのモール・モルダとバイキング同盟軍の行動に対して、ブライアンは本拠地マンスターの軍を招集し、そこに前アイルランド上王のモール・セックネールの息子とコナハト地方の王二人の軍隊を加え、ダブリンへと進撃することになりました。

そして、1014年4月23日にダブリン近郊のクロンターフにて両軍が戦闘を行うこととなりました。

両軍の戦力はブライアン軍が約7000人に対し、モール・モルダ・バイキング連合軍は約~6600人と拮抗していたとされています。

戦いは一日中続き、両軍合わせて最大で1万人もの死者が発生し、両軍の指揮官やその息子などまでもが死亡する激しい戦いとなりました。(戦いの長さなどは脚色されているとの指摘あり)

クロンターフの戦いの油絵(Public Domain)

アイルランドではバイキングからの侵略を防いだ英雄的な戦いであったとの扱いを受けているようで、脚色されているにせよ激しい戦いであったことは間違いありません。

結果的にブライアン率いる軍が勝利しますが、指揮官であるブライアン、ブライアンの息子、孫のトゥールロホまでもが死亡してしまいました。(CK3の家系図でも、ブライアン含め、息子3人、孫トゥールロホの5人が1014年4月23日に死亡している)

このクロンターフの戦いは、アイルランドではバイキングの侵略からアイルランドを守った戦いとして捉えられているようです。(日本の元寇のような扱いでしょうか)

そのため、アイルランドではブライアン・ボルも英雄視されているようです。

しかし、内戦の延長でしかないと主張している学者もいるようです。

ブライアンの息子ドナハ以降はこちらの記事にまとめました。

アイルランド王国の国章 ~青地にハープ

青地にハープの国章は、現在アイルランド共和国として独立したアイルランドの国章にも用いられています。

元々、アイルランドの統治者が使用していたのかどうかは調べた範囲では分かりませんでしたが、正式にアイルランドの国章として採用されたのは1541年です。

しかし、この国章を制定したのはアイルランド人ではなく、当時アイルランドの多くの地域を支配下に置いていたイングランド王室のヘンリー8世で、アイルランド国王の称号を自称した時に制定されました。

以上を踏まえて、CK3のロールプレイ的には青地にハープをそのまま使うのではなく、パッチ1.5で実装された紋章デザイン変更を使って、青地にハープを基にしてプレイヤー家の紋章をアクセントに使うと良さそうです。

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