【歴史】中世の大国”リトアニア大公国”まとめ

本ブログで攻略記事を多く掲載しているCrusader Kings Ⅲというゲームのロールプレイの参考にしたかったので、簡単にリトアニア大公国についてまとめました。

リトアニア大公国の存在した期間

史料にリトアニアの名前が登場するのは1009年のことでした。

13世紀初めごろまでに、現在のリトアニアとほとんど同じ領域でまとまっていたと考えられており、その13世紀からロシア帝国に併合される1795年まで存在しました。

※1385年にはポーランドとの同君連合が組まれ、1569年には実質的にポーランドに併合されたルブリン合同があります。

リトアニア大公国の領土

最大版図

リトアニア大公国の最大版図は、バルト海から黒海にまで達していました。

そのため、リトアニア大公国は”バルト海から黒海へ”と称されます。

下の画像は、1430年のリトアニア大公国の版図を示しています。

1430年のリトアニア大公国の領土©Vaidas V CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

領土の変遷

下の画像から、リトアニア大公国の領土の変遷をみることができます。

黒太線で囲まれているのが、15世紀のリトアニア大公国の最大版図です。

首都ヴィルニュスを中心にして、1236年にリトアニアを初めて国家として統合したミンダウガスによって、濃い黄緑色のエリアへと1253年までに領土を拡大しています。

その後、15世紀まで黒海方面へと領土を広げているのがわかります。

リトアニア大公国の領土の変遷©M.K. CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons

リトアニア大公国の民族

最大版図からわかるように、現在のリトアニアは大公国の一部でしかありませんでした。

そのため、リトアニア人は少数派で多くは正教会を信仰する東スラヴ人によって構成されていました。

リトアニア大公国の宗教

リトアニアは、カトリックと正教会の境界域に位置する国です。

元々は自然崇拝所の強い多神教を崇拝していました。

しかし、多神教を信奉していたために十字軍の信仰を受けることになってしまいます。

リトアニア大公国時代に現在のベラルーシ周辺へと領土を拡大したこともあり、正教会を信仰する東スラヴ人が多いのに加えて、現地へ派遣された貴族たちも正教会へと改宗する者も多かったそうです。

1387年にカトリックを正式に国教として採用しましたが、正教会教徒が多かったこともあり正教会の信仰も認められており、行政用語はスラヴ語が使われました。

現在はカトリックが多数派の国であるリトアニアですが、実はヨーロッパで最後にキリスト教化した国です。

ポーランドとの同君連合

ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラの結婚

ドイツ騎士団によって植民活動の圧力を受けていたポーランドとリトアニア大公国は、1385年に君主が結婚することによって同君連合を形成してドイツ騎士団に対抗しました。

その際、リトアニア大公国は正式に国教をカトリックとしました。(ドイツ騎士団の大義名分はリトアニア地域の異教徒のカトリックかだったため、その大義名分を失わせる意味があった)

ポーランドとの同君連合によって東欧の大国に

赤線で囲まれた地域が、リトアニア大公国(右)とポーランド王国(左)の同君連合の支配地域になります。

この同君連合を組んだことによって、リトアニアのキリスト教化という大義名分を失ったにも関わらずに植民活動を続けたドイツ騎士団を1410年のジャルギリスの戦い(タンネンベルクの戦い)で打ち破ることになります。

リトアニア=ポーランド同君連合の支配地域 1386_-_1434©Poznaniak CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

主な敵対勢力

ドイツ騎士団

リトアニアがキリスト教化していなかったために、ドイツ諸侯の後援で作られたカトリックの騎士団です。

ジェマイティア地域でリトアニアと何度も衝突し、リトアニア=ポーランド同君連合が作成されるきっかけになりました。

リトアニアが正式にキリスト教を国教としても侵攻をやめませんでした。

最終的には、リトアニア=ポーランド同君連合に敗れます。

キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)

モンゴル帝国のトルコ系民族を中心とした南スラブから中央アジアにかけて大きな版図を持ったハン国です。

1362年に青水の戦い(シニュハ川)にて大勝しました。

”リトアニア”の由来

リトアニア大公国の首都ケルナヴェ近くを流れる僅か11kmのリエタウカ(LietaukaもしくはLietava)川が由来という説が有力です。

参考文献

”リトアニアを知るための60章” 櫻井映子 2020年

”リトアニア 歴史的伝統と国民形成の狭間” 早坂眞理 2017年

Wikipedia

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